12年前に48歳という若さでこの世を去った母、よしえさん。千葉で小学校教員をされている兄:長谷川隼土(はやと)さん38歳、会社員をされている弟:長谷川卓麻(たくま)さん37歳、二人の兄弟は根っから明るい母から生き方を学び、その“よしえイズム”を脈々と受け継ぎ世の中に広める活動をされています。
そんな長谷川兄弟に、シングルマザーで2人の息子を育てている土井香奈が、インタビューしました。お二人のアンケートを読む段階で号泣してしまい、当日は泣かないぞと心に決めていたのですがインタビュー当日もやっぱりティッシュの山を作ってしまいました。インタビューは主に弟の卓麻さんが応えてくださいました。
インタビューアー:土井 香奈
取材日:2019年12月15日
“ 超貧乏を支えたおかん ”
―どんな家庭でしたか?
俺が8歳、兄ちゃんが9歳の時にオヤジと離婚して、アパートを借りておかんと3人で暮らしていました。おかんは介護の仕事と、日給の土方の仕事をして俺らを育ててくれていたんですが、月の給料はたった13万円。自宅で使っていたポットは拾ってきたものだったと大人になって知りました(笑)
土方の仕事のあとは疲労困憊、帰宅したらリビングで口を開けて寝てる時もありました。それを見て子供ながら「あ~おかん疲れてんなー」と思ってました。
超貧乏だったので、食事はきゅうりの千切りにごま油かけた卵かけご飯とか質素だったけれど、おかんはいつも明るくガハガハ笑っていて楽しい食卓でした。
*幼少期のお二人と、母が拾ったポット
“「貧乏でも心だけは腐るなよ」”
―最強おかん、よしえさんのことを教えて下さい。
おかんは12年前に癌で亡くなってるんですけど、貧乏な中でも大好きなバレーをやり、太陽のように最期までスーパーポジティブで、俺たち兄弟の自慢の母でした。
エピソードは沢山あって。離婚前、やんちゃな俺が父の祖母を勘違いで怒らせちゃって、おかんが「よしえさんは子どもにどんなしつけをしてるんだ!」と怒鳴りつけられたんです。姑だからうまくやればいいのに、おかんは俺の事を抱きしめて「うちの子は絶対そんな事言いません。」って全力でかばってくれました。
そういう“絶対”信じてくれているところに、おかんの強さと俺たちへの愛を感じましたね。
思春期は暴言を言ってしまったこともありますね。「なんでこんなに貧乏なの?」とか歌に合わせて「生まれてこなければよかった」とかおかんに投げかけたこともあるけど「うるさいっ」の一言。
そうやって強く返してくれたのもよかったです。
二十歳の誕生日からおかんに「産んでくれてありがとう!」って毎年プレゼントを渡したんですよ。亡くなるまでの五年間しか渡してあげられなかったけど最初は980円くらいの時計。おかん超太ってるから、すぐにちぎれちゃって(笑)
それを時計屋さんに持って行って直して、ずっと使ってくれていました。お金じゃないんだなって、嬉しかったですね。
*よしえさんが残した言葉
―お兄さんは“おかん“の印象的な言葉はありますか?
(兄)隼土さん:
僕は小学5〜6年生の時は家にお金がないからか、友達のお金でお菓子をたくさん買ってしまったりとか、お金が絡む事件によく巻き込まれていました。
そんな時、おかんに言われたのは「貧乏でも心だけは腐るなよ、どんなにお金がなくても心の貧乏にはなるな。」と言われて、“ぐさっ”ときましたね。
*兄、隼土さんへよしえさんからの手紙と変わらない言葉
“ 最強サポーターズに支えられて ”
―お金に苦労されたそうですが、周囲の支えはありましたか?
めちゃくちゃありましたね!大家さんは同級生の親だったんですが、家賃の滞納を結構したし、家でご飯を食べさせてもらっていました。近所のラーメン屋さんも母の学生時代の先輩で、ここでもツケでラーメンを食べさせてもらって。行きすぎて、母に怒られましたけどね。
じいちゃんの弟はずっとお小遣いがない僕らに、小遣いをくれて、そのおかげで野球の練習のあと、腹減ったら飯も食えましたね。おかんが働き詰めだったから、ばあちゃんが高校三年間、野球のユニホームを洗って、毎日弁当を作ってくれました。一週間おんなじカタチのおんなじ場所におんなじ物が入っているってゆう名物弁当でした(笑)
母の兄は、にいちゃんの大学の奨学金の保証人になってくれました。ずっと僕らのことを気にかけてくれてましたね。
“ 祖父母から引き継ぐ『強さ』。向き合う生と死 ”
―おばあちゃんも苦労されたそうですね。
母方のじいちゃんとばあちゃんはアサリの漁師だったんですが、じいちゃんが心筋梗塞で倒れて以来、じいちゃんが主夫、ばあちゃん1人で70歳過ぎまでアサリ漁を続けてたんです。
ある日、漁の最中に溺れて、漁に出ることを周りから止められて、やっと辞めました。こんな強いし凄いばあちゃんから、おかんも産まれたんだなと思いますね。
*今も大の仲良しな弟、卓麻さんとばあちゃん
―おじいちゃんとの関係はいかがでしたか?
俺は優しくて平等なじいちゃんが好きで。
そんなじいちゃんが亡くなって、初めて人が死ぬのを見て目の前が真っ暗になり、火葬場でパニックになったんです。
そうしたらおかんが背中をバン!って叩いて「あんたしっかりしなさい!じいちゃんの分まで生きることが、じいちゃん孝行だよ!」と言ってくれたんです。
その3年後に、今度はおかんを看取ることになってしまったんですが、その時また病室で震えて、同じ状況になって。そうしたら不思議なことが起きて、看護婦さんが「しっかりしなさい!」って背中を叩いてくれたんですよ。その時、おかんが乗り移ったと思いましたね。おかんは近くにいてくれるんだと感じました。
“ ブン殴ろうと思って、10年ぶりに会いに行った父 ”
―アンケートにお二人ともにお父さんの事は悪く書かれていましたが、どんな方だったんですか?
オヤジは借金もしてたし、ギャンブル、酒、タバコ、女、オールマイティーで、とにかく酷かったです。お年玉を取られて大泣きしたんですけど、そのことでおかんとオヤジが大喧嘩。おかんと俺は手を上げられてましたしね、本当に大嫌いでした。
離婚した後も、オヤジのことは3人とも話題にもしなかったし、話す時に俺たちは「アイツ」って呼んでたくらいでしたから。
20歳の時、会社に提出するために戸籍謄本を取りに行ったら、戸籍謄本にオヤジの名前と住所、再婚相手とその子ども2人の名前があったんです。住所を頼りに兄ちゃんと会いに行きました。それまでオヤジの事を恨んでいたので、会ったらブン殴ってやろうと考えていましたね。
―実際に会いに行っていかがでしたか?
オヤジの家の近くで、俺に似た小学生の男の子を見かけたんです。腹違いの弟でした。
再婚相手の女性は家に上げてくれて「お父さんからあなた達のことを何度も聞いていました。彼は忘れてませんよ」と教えてくれました。自分たちの可愛い兄弟たちを見て、ブン殴ってやろうとか、恨む気持ちは無くなりましたね。
そこへオヤジが足を引きずりながら帰ってきました。体の調子が良くなさそうで。昔はガタイが良く、よく殴られていたけど、随分小さく見えて。
その後3人で喋った時に、正直に「俺今日オヤジを殴りに来たんだ」と言うとオヤジは「卓麻に将来殺されると思っていた」と。
そして俺たちはオヤジに“今の家族を大事に、奥さんや子ども達におかんや俺たちと同じような思いをさせないこと”を約束してもらい帰りました。この約束を守ってくれているだけで十分だと思いましたね。
(兄)隼土さん:
自分の結婚祝いに、父は「何もしてやれなかったから。」と言って50万円のご祝儀を包んでくれたんですよ。やるなぁ親父と思いましたね。もともと頼りにしてなかったですが、嬉しかったです。
おかんも父の事は、「本当は優しいヤツなんだよね」と言っていたし、「2人の息子を授けてくれて、ありがとね」とアルバムにも記していました。これもおかんすげーなと思いますけどね。
*よしえさんの残した感謝の言葉
後編に続きます!
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